虎の頭をもち姿が魚
「鯱」(しゃちほこ)に込めた
祈りや願いは忘れられ
この国の想像上の生き物も
絶滅してしまった
坂本城跡湖中石垣 令和3年11月18日撮影
令和3年の秋、滋賀県に台風被害のニュースが聞こえなかった。台風での増水を防ぐために事前に琵琶湖の水が放出されているため琵琶湖の水位低下が深刻な問題となっている。
この反面、私のような歴史好きにとっては何年かに一度のチャンスとも考えてしまう。それが湖中史跡の出現である。長浜城の太閤井戸や膳所城の石垣そして坂本城の石垣も見逃せない。
平成6年(1994)の琵琶湖水位低下は100センチを超えた。このとき坂本城の石垣が姿を現しニュースとなった。近年では大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀が築いた城として広く知られた城の一つであり、昨今の城ブームで無名であった城にも人が訪れるため、坂本城が話題に上ることに違和感はない。しかし平成6年の渇水時には今のようなブームとは無縁でありながら坂本城の石垣に多くの見学客が詰めかけていた。もちろん私もその一人だった。
再び坂本城の石垣が湖中より現われたと聞き見学に行ってみた。坂本城跡の湖中石垣は本丸跡と言われている区画の東にコの字方に残るもので石垣を構成する上で重要な支えとなる根石になる。大津教育委員会の『坂本城跡発掘調査報告書』によれば南北ラインで長さ22メートル「このラインの石垣は基礎石だけではあるがすべて残存していた。残存する石材はすべて東面して構築されている」とのことであった。とくに南隅から南面が良く見学でき大きな根石と裏込石に使ったと思われる小さい石が歴史のロマンを掻き立ててくれる。
坂本城本丸は水城であり、城から直接船に乗って琵琶湖を横断し安土城に行くこともできたが、水に沈む石垣をどのように造ったのだろうか? 水城ではなくとも彦根城の堀の石垣などでも同じ疑問がわきあがってくるかもしれない。そもそも石垣はすべて石でできている訳ではない。土塁を積んでその周りを石で固めているので水によって土塁が崩される心配も考えられる。崩れない工夫の一つは土塁と大きな石の間に裏込石と呼ばれる小さな石を詰めて、水を土塁内に留めず排水させることである。また石垣の上に建物を乗せることでその重みが石垣を安定させるコツにもなっている。そして水城や堀に面した部分、地盤が軟らかい土地に建てる城などにはもう一つ大きな工夫が施されている。それが石垣の最下部である根石の下に胴木と呼ばれる木材を敷くことなのだ。
木材と水と考えると木に水が染みていき腐ってしまいそうなイメージがあるが、実は木材は水に沈んだままでは腐ることがない。この性質を活かした上で耐水性が強い松や椎類の角材や丸太を最下部に敷き、その上に厚い板状の胴木を重ね細かい石で補強、それから根石を並べる作業へと取り掛かったのである。
本来ならば石垣作りに適さないであろう場所にも巨大建築を施す技術にも人の探究心を感じることができるのだ。
「Fox Hole」、文字通り「狐の穴」である。今まで何度かFox Holeについて書いてきた。ある程度のボリュームがあるものはDADAジャーナルで4回ほど。最初の原稿は2017年、この原稿を5回目とする。
Fox Holeは稲荷の社に空けられた穴のことだ。コンクリートや石組みの台座に空いているものもある。Fox Holeの最初の発見者は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)だ。『新編 日本の面影Ⅱ』に、Fox Holeのタイトルがある。八雲が「Fox Hole」と記し、翻訳者が「狐の穴」とした。「稲荷神社の社殿の裏手の壁には、たいてい、楕円か円形の穴が開いているのを見かける」と書いている。
僕が知る限り日本語でこの穴について言及した書物はない。日本古来の正式名称があるのかどうかも今のところわからない。
湖東湖北のごくわずかな場所でしか蒐集(コレクション)していないが、ひよっとするとFox Holeの蒐集は世界初かもしれない。社寺を巡りどんな神様か仏様がおいでになるのかわからないとき、稲荷社かどうかをズバリと判断できるところが素晴らしいのである(ただそれけなのだが……)。
こんもりとした山にある仙琳寺(彦根市古沢町946)は、彦根藩第4代井伊直興の庶子本空(幼名千代之介)を開基とする天台宗の古刹である。直弼もこの寺で茶会の亭主をつとめるなど親密な関係にあった。また、寺の東側(佐和山側)の斜面、竹薮の中にある石田三成の茶の井(伝)、石田地蔵、首から上の病にご利益があるといわれている恵明権現など、僕にとっては興味津々なスポットなのだ。
鬱蒼としていた西側(琵琶湖側)斜面が整備され、陽が差して清しい場所になっていた。今まで見えなかった古い社が3つ並んでいた(随分長い間忘れられていたようだ)。
社は向かって右から大中小、古さは判断しにくいが、大きな社が新しく、小さな社が最も古い様子だが、いつの時代のものかまではわからない。早速、Fox Holeを確かめると全て稲荷社だった。どういうわけで3つも並んでいるのだろう。祀られているのは、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)か、荼枳尼天(だきにてん)か。鳥居が建っていた気配がないので、仏教系の荼枳尼天かもしれない。
石田三成の佐和山城時代には、この辺りに修験者がいたといわれている。何の根拠もないが、戦国時代の勝利を祈った稲荷、江戸時代の子孫繁栄・五穀豊穣を祈った稲荷、そして現代、商売繁盛を祈った稲荷、そんなふうに考えてみる。妄想は、どこまでも翼を拡げる。
八雲は異邦人で日本に興味を持った。僕らはもう日本の文化に関してハーンと同じなのだ。必要なのは好奇心だけのようである。
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工房にて
「そんな手仕事があることを知らなかった」「どうすれば応援できますか……?」
カネイ中川仏壇5代目で塗師・箔押師の中川喜裕さん(31)は、昨年11月、SNSで「木製品ならなんでも無料で漆を塗ります」と投稿、木製食器やナイフの柄、大きなものではテレビボードなど90点程の依頼品を半年かけて仕上げた。伝統工芸の技も知って欲しいと仕上げる工程もストーリーズにアップ。依頼者や依頼者の知り合いから届いた感想が冒頭のセリフである。中川さんは「若い世代は漆を知らない人が殆ど」と言う。
漆は、ウルシ科の落葉高木・ウルシの樹液から作られる天然樹脂塗料で、接着剤としても使われ、縄文時代の遺跡からの出土品もあるほどの歴史を持つ。英語の「Japan」は漆や漆器をさすこともある。熱や水に強く、抗菌性もある。美しいツヤ、手に取った者にしかわからない感触も魅力的だ。そんな漆文化を広めたいと中川さんは奮闘中なのである。
中川さんはお父様と一緒に仏壇店を営むなか、2020年、長浜曳山祭りの曳山の修復の仕事に携わった。先輩職人から伝統技術などを学ぶとともに、先輩職人がフェイスブックやブログなど、ありとあらゆる方法で漆についての発信をしていることを知る。「発信しなければ職人としての存在はないのと一緒」と言うその人に刺激を受け、自分なりの方法で漆文化を発信しようと、まず始めたのが無料プロジェクトだった。
中川さんの趣味はアウトドア。ナイフや斧の柄、テーブル、木製のぐい飲みなどのキャンプ用品に漆塗りを施して楽しんできた。水や熱に強く、抗菌性もある漆はアウトドアにはピッタリだ。更に長く使い続けるほどに味が出て、傷ついたり割れたりしても修復が可能である。モノを永く大切に使い続けたい人にはおススメのコーティング剤なのだ。
無料プロジェクトをきっかけにアウトドアで師匠と仰ぐことになる人との出会いもあり、今年4月、漆塗りを施したオリジナルアウトドア用品を販売するブランド「GNU(ヌー)」を立ち上げた。11月、買った人が漆塗りにチャレンジできる「GNU URUSHI KIT tamate-bako」が完成。輪島で作られた木製のお弁当箱にチューブ入りの漆、テレピン油、手袋、アームカバーなどと丁寧な解説書がセットされている。
漆はかぶれるとか、扱いが難しいと思いがちだが、解説書を読むと誤解が多いこともわかる。漆を乾燥させる漆室(うるしむろ)は段ボールを使った作り方も紹介。「漆室を開けるときの感動をぜひ味わってほしい」と中川さんは目を輝かせる。本当に漆の素晴らしさ、漆塗りの奥深さをみんなに知って欲しくてしょうがないという風だ。
これまでに数回開催した「tamate-bako」やフィンランドの木製マグカップ「ククサ」を作り漆塗りを施すワークショップは盛況で、県外からもワークショップ開催の声がかかるようになった。アウトドアに限らず人とのつながりもどんどん増えはじめている。そのことを「お陰様で」とか「ありがたいこと」と喜ぶ中川さんは、「家の中に手を合わせる仏壇があることは大切」とも話された。
伝統はイノベーションの連続であるという言葉を思いだす。「どうすれば応援できますか……?」
まずは使ってみることだろう。実は「応援するのではない」。中川さんに「応援していただいているのである」。それは「ありがたいこと」なのである。そしてそれは自分自身の暮らしのイノベーションなのだ。伝統の技を伝えてくれる人がいる。「ありがたいこと」である。
11月23日、第20回近江中世城跡「琵琶湖一周のろし駅伝」が行われた。佐和山は午前10時過ぎにのろしがあがった。前日は雨が降っていたが石田三成のイベントがあるときには必ず晴れるらしい。三成ファンの間では「治部少晴れ」という。僕はこの日の午後、「石田群霊碑」参道整備に参加した(三成の戦実行委員会主催)。
石田群霊碑の存在は一般にはほとんど知られていない。井伊家の菩提寺清凉寺にある(無許可の立ち入りは禁止)。 清凉寺は島左近の屋敷地であったことでも有名で、本堂裏手の墓地には、井伊直政から歴代蕃主の墓が整然と並んでいる。墓地を迂回するように山手を行くと、護国殿跡に至る。背後の急斜面を登り尾根を行くと、木立のなかに「石田群霊碑」がひっそりと立っている。
昨年に引き続き2回目の整備である。佐和山の西の丸上段曲輪に彦根市が立てた案内板があり、地図には竪堀を下って群霊碑に至るように描かれている。傾斜が急で危険が伴い、ルートを知らないと迷うこともある。更に、遺構破壊に繋がるかもしれない。
そこで、許可を得て、清凉寺から登ることができるルートを整備するのが目的である。今年は、武将隊(豊臣秀吉と大谷吉継)、佐和山ののろし隊、神奈川県や愛知県から参加した人々、ご住職夫妻とお母様もご一緒くださり、21名での整備となった。
参道の落ち葉を掃き、歩きやすいように木立の枝を落とす。倒木を並べてルートを作り、群霊碑を清め、斜面に落ちていた墓石をあげた。僕は昨年、倒れた墓石を動かして背中の筋がピシッと音がした。今年は慎重に行動したので、ほとんど役にたっていなかったかもしれない。
最後、ご住職が読経をしてくださるなか、皆で焼香をした。昨年より随分バージョンアップした参道整備だった。
ところで、この石田群霊碑はどういった経緯で建立されたのか。『三成伝説』(オンライン三成会編・サンライズ出版)には、「11代藩主直中の意向により、18世漢三和尚が建立したもので、当時、お家騒動が絶えなかった井伊家では、成仏しきれないでいる石田の霊の仕業だと恐れ、件の供養碑を建てたのだとも聞く」と書いてある。佐和山城落城はよほど悲惨な戦いだったのだろう。200年余りが過ぎても石田群霊を気にしていたのである。 当時のお家騒動とは何か。天寧寺(彦根市里根町)が建てられた理由に関係しているのではないかと思っていた。腰元若竹が、不義の子を身ごもったと知り激怒した直中はこれを重く罰し、お手打ちにした。後になって、若竹の相手が長男直清であることが明らかとなり、若竹と腹の子、すなわち初孫の菩提を弔うため天寧寺を建立し供養したといわれているからだ。文政2年(1819)のことである。石田群霊碑の建立は文化5年(1808)4月。時系列が合わない。井伊家に何があったのか、大きな宿題になった。
我が家の掃除や事務所の整理整頓は全くできないのだが、僕は成果が目に見える参道整備が好きである。来年もまた、参加すると決めている次第だ。
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ハードルをなぎ倒し
華麗なフォームでゴールを目指す
野となり山となり
川は枯れるとさ
イラスト 上田三佳
血はあらそえないとはよく言ったもので、草木虫魚を愛する子に育った。
女の子で中学一年生ともなれば、世間一般ではそろそろ親をうとましく感じるようになる年ごろかとおもうが、川へ行こう魚を見よう、山へ行こう虫を探そうと誘えば嫌ともいわずつきあってくれる。そんな呪文も遠からず効かなくなるのだろうか。
娘とふたり、近ごろのたのしみは、休みの日の朝に散歩すること。すぐそこの川へ。カワセミを見にいく。
五分も歩けば行けるほんの近所に、宝石にもたとえられるカワセミのすみかがある。じつは案外身近な人里にもいる鳥なのだが、清流にすむ印象があるために、まさかこんなところにという思い込みから、ついそこに彼らがいるのを知らないで暮らしている人も多い。
川べりのこみちに分け入ると、ふいに足もとでキラリと光って、あの青い美しいのが川面すれすれにツゥーっと飛んで、向こうの土手の茂みに消える。つがいでいるのはわかっているのであわてずにじっとしていると、ほどなくして案の定、別の一羽が追いかけて飛ぶ。
あらわれて、まっすぐにコバルトブルーの軌跡をひいてフッ、と失せる。カワセミのあらわれ方と失せ方は、まるで流れ星みたいだ。ホラ、いま流れた! 見た? 見た。そんなふうに。
ふたりで通ううちに、土手の木々が川面にさしのべる枝のうち、どれが彼らの好みであるか、ここから飛べば次どの朽ち木に止まるのかの見当もついてきた。
けれど、よし今日は写真に収めてやろうとカメラを構えて待つようなときに限って気まぐれな出没をする。
ある日など、向こうでキラリと青く光っているのが空き缶だとも気づかずに、小半時ほどもそいつがこちらへ飛んでくるのを土手にすわってふたりでのんきに待っていた。
なんとも間ぬけな話だが、それが空き缶だってカワセミだって父は一向かまわない。娘とふたり、川のほとりのこのひとときがあればいい。
流れるコバルトブルーの星に願いをかけるまでもない。流れる星をただ待つようなこのひとときに願いはほとんど叶っている。
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石川千代松博士の胸像写真が必要だったので撮りに行ったときの話だ。彦根の旧港湾、かつて鮎苗協同組合があった場所(彦根市元町)、船町の交差点近くにある。昭和49年(1974)、石川先生小鮎移殖顕彰会が建立したもので、「石川先生顕彰の碑」には次のように記されている。
「石川千代松先生(一八六一│一九三五)は、琵琶湖に産する小鮎は鮎が湖内に封じ込められて出来た生態学上にいう陸封現象の所産であって鮎と別種のものではないと信じ、大正二年に小鮎を東京多摩川に試験的に移入してそのことを実証した。(中略)先きに最初の実験地多摩川の青梅大柳河原に、『若鮎の碑』が奥多摩漁業組合と土地の有志によって建てられたが、当会は小鮎の産地である琵琶湖畔の而も此の実験の原点である彦根市に、先生の胸像を建て、当会に御援助を賜った方々と共に、永く先生の栄誉をたゝえ遺徳を偲ばんとするものである」。
かつて小鮎と大鮎は種類が違うと考えられていたが、同種であり、鮎の体の大小は環境の違いに影響されることが証明され、鮎養殖や移植放流の起源となったのだ。
「千代宮常夜灯」は、石川千代松博士の胸像から30メートルほど南に建っている。
常夜灯は街道沿いに夜道の安全のため設置されたもので、道標の役目も担っている。千代宮常夜灯は石灯籠で高さは3メートル以上はあるだろうか、「明治四十年再建」と記されている。経年変化も美しい。
「千代宮」は現在の「千代神社」(彦根市京町2丁目)である。天岩戸神話や、天孫降臨神話で活躍する女神「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」を主祭神とする神社だ。かつて佐和山の麓(古沢町)、「姫袋」というところにあった。藤原氏の荘園があり、藤原不比等の娘が住んでいたと伝わる場所である。姫袋は現在でいうと、国道8号線佐和山トンネルの手前、マルハン彦根店の南側の駐車場からネクステージ彦根店の辺りが境内地で、ネクステージの建物のところが拝殿、更に山側に本殿があったようだ。
千代神社と呼ばれるようになったのは明治2年からである。そして、千代神社が現在地に移されたのは昭和41年。遷宮が行われた理由はDADAジャーナル「千代神社と藤原不比等の娘」に掲載している。
さて……、「千代宮常夜灯」の建っている場所と常夜灯の再建年代に「?」とひっかかった。千代宮への標となるはずの佐和山へ続く道沿いでないこと。明治2年には千代神社と呼ばれていたはずなのに、明治40年に再建された常夜灯の名称は「千代宮」なのだ。
僕の疑問は案外簡単に解けた。文化財保護課の鈴木達也さんが彦根市史に載っていると教えてくれたのである。『新修彦根市史 民族編』25ページ「柳町」のところである。
「現在の元町の一部で、彦根町の北に接し、朝鮮人街道の両側に町屋が並ぶ。西側の町屋の裏は外堀である。『大洞弁財天祠堂金寄進帳』には家数六七軒、うち借家三三軒とあり、米屋五軒、小間物屋・鍛冶屋各三軒などに加え、青屋(紺染屋)などがあったことを記す。この町の北端、外船町との境付近に、昭和二十五年(一九五〇)の台風で倒れるまで、町名の由来ともなった柳の老木が立っていた。
この柳には石田三成の妻の父宇多頼忠に関する次のような伝承がある。頼忠の妻は美人の評判が高く、琴の名手でもあったが、あるとき三成の家臣である鷹井右京という者から思いを寄せられ、相愛の仲となった。それを知った頼忠は妻を斬り殺してこの地に埋め、柳の木を植えたのだという。倒木する以前、柳の下には千代宮の常夜灯が建っていたが、この常夜灯は移されて今でも現存する。」
整理すると、昭和25年(1950)まで柳の老木があり、この柳の下に件の常夜灯があったということだ。明治40年に再建された常夜灯は千代宮時代のものを移設したものだ。そして、柳は石田三成の義父宇多頼忠の妻を埋めたところに植えられていた。佐和山城時代のできごとが現在にまで繫がっている。
では、柳の老木が何処にあったのか? 彦根城博物館所蔵の「御城下惣絵図」を調べてみたが、柳町と外船町との境付近がわからない。
ただ、石川千代松博士胸像の近くに「外舟町五六番地先」と記された石碑がある。江戸時代舟入が設けられたところを示しているのだろう。柳町の北端であり外船町との境界あたりになる。遡る術はないものだろうか……。
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彦根市本町三丁目の信号から見る彦根城天守
今更ではあるが「総構え」の定義は難しい。城を中心とした外郭と解釈されている。単純に考えると防衛や生活・経済が城と総合的に結び付いていて堀や土塁などで囲まれた区域である。
中国などの諸外国の城は城下町を含み高い城壁に囲まれている光景である。これに対し日本の城は城下町の外れにしっかりとした区切りが感じられない。理由として現在は城の定義に城下町まで含まれていないために研究が進んでいないこと、明治維新から現在までの町作りで総構えの外郭である堀や土塁などが早々に壊されたことなどが挙げられる。
そもそも、九州北部を除く日本の戦では異民族の襲来が無かったため玉砕を覚悟しなければならないような凄惨な守城戦が行われなかった立地も総構えに高い城壁を有しない結果となった。それは江戸時代においても城下町が総構えで囲まれた有限的な区域で終わるのではなく城下の外でも安全に町が拡大できたためにますます総構えを感じることが難しくなっている。
彦根城においての総構えはどこであるのかと考えるならば、史料として『御城下惣絵図』の範囲であると考える。北は松原内湖・南は芹川・西は琵琶湖・そして東はJR琵琶湖線の少し西側までの範囲となる。
『御城下惣絵図』は彦根城を紹介する本などに掲載されていて彦根城博物館のHPでも閲覧できるため興味がある方は調べていただきたい。そのときに注目してほしい部分は城側の外堀沿いである。ここに緑色が塗られた部分があり、堀と一緒に城下町を囲んでいる。この緑色は土塁があった場所を示し、城下町の総構えには土塁と外堀が一つの区切りであったと知ることができる。彦根城下には幸いにして土塁が残っている場所がある。以前に銭湯だった山の湯が庭園築山として使っていた場所で平成27年(2015)に本格的な調査が行われている。これによると土塁の底辺18メートル、上辺4メートル、高さ城内側5.5メートル、城外側6メートルだった。そして土塁上部は竹藪になっていたことも記録に残っている。単純に考えれば外堀の内側は十メート以上の壁に遮られていたこととなる。外堀から遠く離れないと山の上に建つ天守すら見ることができなかったであろうと想像できる。彦根城天守を目印にしながら攻め寄せる敵は外堀近くで城を意識した瞬間から目標となる天守を見失うこととなる。実はこれは外堀を突破したのちに中堀を攻めるとき、そして中堀を突破したのちも攻め手に天守が見えない不安を与える作事が行われている。
私は隠れた彦根城ビュースポットとして城西小学校西側の本町三丁目の信号辺りを案内することがあるがこの場所も江戸時代には土塁と竹藪で天守が見える場所ではなかったのである。私たちが当たり前のように彦根市街地から見る彦根城は、江戸時代には当たり前の光景ではなかったのだ。
「お台処 ともゑ庵」の2階でお茶をしようと誘われ、カフェを訪れたのは、今年6月最後の日曜日だった。
昭和9年に建てられたという民家を改装したワンフロアーの店内は、三方のレトロなガラス窓のせいか、樹々越しにみえる伊吹山や町なみが穏やかで、明るく解放感にあふれていた。
カフェの主は彦根市に住む山崎春美さん・眞理子さんご夫妻。家は眞理子さんの祖父が建て、ここ10年ほどは空き家になっていたそうだ。
1階テナント「お台処 ともゑ庵」は2021年4月にオープンしたお食事処である。ともゑ庵のお客様に食後のコーヒーを提供したいとご夫妻がはじめたのがカフェだ。食後のお客様には100円引きで提供している(カフェのみの利用も可)。香り高い珈琲を飲みながら、「来月あたりからここでパンの販売をはじめます」とお聞きした。
10月……、開店に合わせて訪れると、すぐにお客さんがやって来た。「地元です」というお客さんは、もともとはご飯党だけれど、週に1回、ここのパンを食べるのを楽しみに通っているそうだ。
「パンの焼き時間を少しかえてみたのですが」と春美さんが話しはじめると、「私はもっちりした方が好き」とか「具材の量はちょうどいいんじゃないかな」などと、お客さんとご夫妻はパンの話で盛り上がった。
本当に「ともゑ庵の2階」でパンの販売がはじまったのだ。名前は「コロボックルのパン屋さん」という。
春美さんがパンを焼きはじめたのは2020年2月以降、コロナ禍で在宅時間が増えたためだ。針金細工や木工も楽しんだが、眞理子さんがはじめたパン作りにハマった。
2回目の段階で「口を出さず、好きにやらせて」と春美さんが言ったそうだ。発酵が思うようにならないことなどに面白さを感じ、発酵器を手作りするほどに没頭していった。
食パンを焼いては、親戚や友人などに配ると、「おいしい!」と皆に喜ばれ、今年7月、販売用のパンの製造をはじめた。
毎週土曜日の午後は仕込み作業と試作品づくり、日曜日は早朝4時頃に作業をはじめる。作るのはブリオッシュ系丸パンとミニ食パンの2種類で、それぞれプレーンとレーズンやチーズなどを入れたものが数種類ずつある。
ご夫妻は「国内産小麦粉を使用し、材料と自然な風味を大切にしている」と言う。
春美さんは「いつかは天然酵母を作るところからはじめたいです。パン作りに到達点はないですね」とゴールがみえないことと、眞理子さんと二人であれこれ考えながらの作業を楽しんでおられる。
カフェは、ご夫妻にとって二人で過ごすとっておきの場所なのである。仲の良さがパンの風味を増しているに違いない。
コロナ禍に生まれた可愛らしいパンは、ともゑ庵2階のカフェに並んでいる。
どこかへ行きたいと思った
どこだろう……
長く折れ曲がり伸びる影の先辺り
暗い森に秘密はありそうだ
彦根城下町の食い違い(彦根市本町二丁目)
前回、彦根城下町は彦根道から始まったと考えられることを記した。これは彦根だけの話ではなく都市計画においては当たり前のことである。しかし、時代の需要によって町の形は変わってくる。
古代は京都市内に碁盤の目として今でも残るような条里制が主流であり、この形は都市だけではなく日本各地で痕跡を確認することができる。滋賀県内もその例外ではない。対して現代に近い時期の土地計画としては太平洋戦争後の戦後復興ではないだろうか? その象徴的な逸話として名古屋市を例に挙げたい。
大空襲で名古屋城天守すら失った名古屋市の復興に乗り出した佐藤正俊市長(当時)は、田淵寿郎を技監に招き土木建築業務の全権限を託す。佐藤自身は前後の公職追放で市長職を追われるが田淵の仕事は継続された。まず田淵が行ったことは墓地を一か所に集めることと幅の広い道路を造ることだった。特に道路に関して見てみると、国策として公園整備も兼ねた100メートル道路が立案されていた時代ではあったが、それを除いたとしても道路幅8メートル以上を考慮した200万人都市を念頭に置いた道路計画が実行された。まだ高度経済成長期など夢にも思っていない時期に将来の車社会を見据えた道路計画は無駄とされ、田淵や佐藤は冷笑された。しかし、現在は先見の深さを高く評価されている。これに対し空襲の被害をあまり受けず江戸時代の街並みを残す彦根市では人口は名古屋市の20分の一ほどだが車の渋滞状況は場合によって酷いとも感じる(私見)。
名古屋市は例外だが、現在の都市形成は江戸時代に遡ることができ、各都市が持つ役割が組み込まれている。彦根は譜代大名筆頭井伊家の城下町であるため物流が活発な大規模地方都市であり、旅人を監視する監視機関であり、軍事都市でもあった。
物流は城下を通る道さえ整備できれば自然に商人がやってくる。監視に関しては「彦根城は道を通る人の顔が判別できるように道とは並行せず斜め向きに計算して築城されている」との眉唾な話を耳にするが、城下町には門や木戸を設置していて役人が常駐しているためわざわざ彦根城から監視する必要がない。絵図などを観ると城下町にも多くの門が作られていたことが確認できる。
そして軍事都市としての痕跡は、城下の中の細い道や「どんつき」と呼ばれる急な行き止まりと「食い違い」と呼ばれるクランクの多様であった。これら全ての道が敷かれたのちに町作りが始まった訳ではなく町作りの中で必要に応じて配備されて行くのだが常に重視されていたことは間違いない。
第一期の築城で現在の内堀より内側の築城が行われ、その堅城さは現在の城ブームでも語られる。しかし防御に適した城を戦いに使わないために城下町で敵を防ぐ工夫が考えられたのである。
7月、長浜市民体育館での体験会で
他のまちにはない長浜だけが紡ぎ続けた歴史……。それはアメリカンフットボール(以下、アメフト)である。
今を遡ること71年前、1950年に旧長浜市立第四中学校(現在の市立南中学校)でタッチフットボール部が創部された。これは日本初のことだったといわれている。翌年の1951年3月、第四中学が「第1回関西ジュニアタッチフットボール大会」で優勝すると、米原・彦根でも創部が相次ぎ、高校ではアメリカンフットボール部の創部へとつながっていく。
この原動力となったのが、第四中学で教鞭をとっていた故吉川太逸さんだった。
戦後、日本に駐留していた進駐軍の兵士らはグラウンドを見つけるとすぐにフットボールを楽しんでいた。それは見たこともないスポーツだった。吉川さんは興味を持ち、「このスポーツで子どもの体を丈夫にし、スポーツでアメリカに勝つ人材を育てたい」と夢見た。ルールブックを手作りしたそうだ。
吉川さんは、大観衆の中でプレーさせてやりたいと甲子園球場で東西の大学が王座を決める「甲子園ボウル」の前座試合として中学生チームが対戦する「関西中学生選手権大会」を実現させた。現在の「長浜ひょうたんボウル」の前身にあたる「長浜ボウル」を1951年に開催。地元の人にアメフトを知って欲しいと始めたものだが、甲子園ボウル、ライスボウルに次ぎ日本では3番目に歴史ある大会となっている。
吉川さんはユース、ジュニア育成の先駆者として日本アメフト連盟の殿堂入りも果たされたアメフト界のレジェンドである。そして、多くのプレイヤーを輩出してきた長浜は、アメフトの聖地なのである。
今年7月、長浜フラッグフットボール協会が発足し、小学生を対象にした体験教室が行われた。フラッグフットボールの起源は、アメリカンフットボールにある。1チーム5人で対戦する。アメフトで行われるタックルは禁止。その代わりに腰に付けた布(フラッグ)を奪う。名前の由来はここにある。体への接触が少ないため防具も必要ない。
「アメフトについて、長浜には他のまちが持たない魅力がある」と話すのは、同協会の代表・伊藤和真さんだ。副代表の堤義定さん、事務局の小林大英さんと一緒にお話をうかがった。3人は、学生時代アメフトのプレイヤーであり、長浜青年会議所のメンバーとして、長浜のまちづくりや振興を共に考えてきた仲間でもある。長浜で子どもたちにフラッグフットボールに親しんで欲しいと協会を設立したそうだ。
どんな競技なのかを知って欲しいと体験教室を開催したが、その反響は予想以上だった。「アメフトの経験者が指導者を引き受けてくれるし、クラブチームができれば参加させたいという保護者の声も多数あった」と小林さん。
堤さんは「足が速いとか、ボールを正確に投げられるなどに加え、作戦を考える役割もあり、運動が得意な子どもでなくても活躍できる場面は多く、協力し合うので会話が増え連帯感が深まる。その経験はスポーツ以外の場面でも役立つ」と考えている。
現在、教員の働き方改革で学校での部活動の時間は短縮傾向にあり、子どもたちは習い事や塾で運動離れの傾向にある。フラッグフットボールは、2020年、文科省の教育指導要綱にも掲載され、2028年のロサンゼルス五輪では追加種目になる可能性も高い。
伊藤さんは「アメフトを知る人が多い長浜の強みを生かして、フラッグフットボールでまちを盛り上げたい。観戦してもらえれば面白さがわかるはず」と熱っぽく話す。
9月中にはホームページが完成予定。コロナ禍で延期した2回目の体験会を開き、クラブチーム結成へつなげていきたいと考えている。
この夏、東京2020オリンピック・パラリンピックが開催された。コロナ禍での開催に賛否両論はあったが、テレビ観戦にくぎ付け状態だった。選手へのインタビューでは、開催や競技を支えた人への感謝とともに、「子どもたちに夢を与えられたと思う」「この競技をやってみたいと思って欲しい」というコメントも多く耳にした。
アメフトの聖地からフラッグフットボールの黎明。ロサンゼルスに向けて歴史が動き始めた……。必要なのは努力し続ける才能と見守りつづける才能だけである。ドラマチックだ。
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