三成の戦

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2014年3月12日更新

宮下英樹氏が描いた「石田三成肖像画」は、夢京橋あかり館にて展示中。


 3月15日(土曜日)、彦根の清凉寺で「三成の戦2」というトークイベントが「今、なぜ三成なのか?」をテーマに行われる。また、彦根市・米原市・長浜市の三成公を慕う団体などが集結する「三成会議」もある。『「佐和山十九万四千石の故郷」として三成公の魅力を全国発信! 彦根市・米原市・長浜市の市長による「石田三成に逢えるまちづくり宣言」が行われ、全国の三成公縁の地に参加を呼びかける』というものだ。井伊家の菩提寺である清凉寺での開催というのが懐の深さを感じるのである。しかもこの日は特別拝観が許されている。僕のように在野の人間にとってこのイベントは、井伊直弼公も修行された清凉寺の空気に触れることのできる千載一遇のチャンスでもある。
 ところで、石田三成の佐和山城時代は短い。たった5年なのである。
 戦国時代、犬上郡と坂田郡の郡境にある佐和山城は、近江南北(江南、江北)の「境目の城」として、たえず城主や城代が入れ替わった城であった。 佐和山は、標高約233mの独立丘陵である。
 永禄11年(1568)、織田信長が足利義昭を擁し、上洛をめざして近江に進出する。信長の侵攻によって六角氏は滅亡、元亀元年(1570)の姉川の合戦後、浅井氏も滅亡に向かう。元亀2年(1571)2月、信長は佐和山城を手に入れ、信長の家臣丹羽長秀が城主となる。
 織田信長の没後、その地位を継承したのが豊臣秀吉である。天正18年(1590)、秀吉は天下統一の過程で重要な拠点のひとつだった佐和山城をみずからの直轄にし、城とその周辺の直轄地を管理する代官を任されたのが石田三成だった。文禄4年(1595)、関白豊臣秀次が秀吉と対立して自害した後、秀次の所領があった近江国を中心に諸大名の配置替えが行われ、三成は、犬上・坂田・浅井・伊香四郡を与えられ佐和山城主となるのである。
 関ヶ原の戦いまでわずか5年。三成は佐和山城の本格的な整備を行い、城下に惣構(城郭の外郭)を築き、城やその城下町は三成の時代に最大の規模となった。
 そして慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで三成が徳川家康に敗れると、佐和山城も家康方に攻められて落城。家康の家臣である井伊直政が佐和山城主となり、その後、井伊家は新たに彦根城を築城し、佐和山城はその歴史を閉じることになる。
 平成21年4月から9月にかけて行われた佐和山の東側(鳥居本側)「奥ノ谷」と呼ばれる地区の発掘調査では、土塁や内堀の痕跡が確認され、屋敷地を囲む溝や堀が見つかったほか、石組遺構や橋状遺構、門柱跡なども検出された。案内板が設置されている。
『大手門は彦根市内に現存する宗安寺の表門(赤門)と伝えており、左右の土居は現在も比較的良好に残っています。土居を流れる川は、かつての内堀でした。今はコンクリート壁の狭い川ですが、往時は並行する道路近くまで広がっていたと考えられます』(「佐和山城跡 大手口跡」解説抜粋)。
『佐和山城の大手側は、内堀と土居(土塁)の外に、南北に直進する「本町筋」が設けられていました。「本町筋」は当時のいわばメインストリートであり、現在も道筋が良好にその姿を留めています。かつては「本町筋」にそって町屋が連綿と続いていました。(中略)当所の井戸跡は、小字「百々町」に位置しており、発掘調査が実施される以前から水田の一隅に姿を留めているものです。』(「佐和山城下町の井戸跡」解説抜粋)
 解説を読み、辺りを見渡せば、本町筋、内堀や土居(土塁)、井戸跡などが見えてくる。
 島左近屋敷跡の清凉寺、大手門のあった佐和山鳥居本側、井伊家菩提寺清凉寺、3月15日は、何を求めるかによって、佐和山を訪れる者の心の在処も決まる。

 

三成の戦2

日時: 2014年3月15日(土)10:00〜15:30
場所: 清凉寺/定員 200名/入場無料
出演: クリス・グレン氏(ラジオDJ ・ タレント)・ 田附清子氏(佐和山城郭研究会代表)・桐野作人氏(歴史作家)・鍋島壽夫氏(映画プロデューサー)

 

店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。

小太郎

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